「快」なとき。
ある授業のとき。
思いつくまま、ぱぱっと書いたらこんな感じに。
(社会人になったら、「働く」が入るんだろうなぁ。そういう仕事していたい。てかする。)
その後、なぜそれが「快」なのか、グループでぺちゃくちゃおしゃべり。
しばらくして、先生がこう切り出した。
「皆さんにとって心地よいことは、誰かにとって苦痛なこともあるんです。」
例えば「お風呂に入ること」が心地よいことだとする。
でも、お風呂の入り方って本当に人それぞれで。
シャンプーだけの人もいれば、リンスやコンディショナーを使う人も。
お湯加減も、ぬるめが好きな人もいれば、熱いのが好きな人もいる。
もちろん、お気に入りのメーカーやブランドがある人もいる。
挙げたらキリがないけれど、それぞれの「心地よさ」に対応しきれないのが現実にはあって。
ある介護の現場にいた人のお話では、いかに利用者○人を○分で、効率良く入浴させるかで精一杯だったと。(もちろん全ての現場がそうではないのは前提で。)
画一的で合理性を求めた入浴を「快」に思う人はきっと少ないはず。
「快」ってなんだろうって考えてみる。
結局「その人にとっての幸せ」かなと思う。
ありきたりかもしれないけど、シンプルにそうかなと。
それはつまり、福祉が担う役割の一つであると思っていて。
それでも、なかなか機能していない部分があるのは、きっと複雑な矛盾を抱えているから。
組織や人材、法や制度などなど、いろいろあると思うけど、もっともっと根深くて「見えていない」ことがある気がする。
だから、また整理してもう少し深く書き直す予定。
学校が始まって2ヶ月経過して、まだまだこれからの問い。
ここからは、ものすごーく余談。笑
私にとって「快」は写真を撮ることなので。
思うがままに好きな写真をアップ!
(今回は2年前のカンボジアと京都。笑)
ただ綺麗に並べてあるだけ。でも心惹かれる。
その近くで、たむろってたおっちゃん達。
とにかく陽気で面白かった。
何が面白かったかは忘れた。笑
かつてゴミ山があったスラム街。
海外NGOが運営している幼稚園に通う子どもたち。
ふらっと訪問した、まちなかにある小学校。
(日本だったら不法侵入だったかも。笑)
京都・糺の森。
この時、一緒に京都観光してくれたのは、カンボジアスタツアで出会った人。
またみんなに会いたくなる。あの場所に行きたくなる。
それほど「快」なときだったと、今さら実感。